数学について。

今自分は大学院の数学専攻に所属しているのだが、数学を勉強するのはとても楽しいな、と日々思っている。

 

 

何が楽しくて数学をしてるのかといえば、やはり分からなかったことが分かる瞬間というのが好きだからである。考えることはたしかに好きではあるが、答えが出ないまま何時間も考えるのはあまり良いものではないと思う。ましてこれが何十時間とか何日とか何週間とか何ヶ月とか何年とかという長い時間であれば尚更であろう。困ったことに自分は飽き性なので、このオーダーの時間でものを考え続けるのは多分無理だ。

 

 

しかし、問題の解決を見た刹那、この長時間の苦痛から解放され、脳内に光が満ちる。今まで宙を舞っていた言葉や数式が、はっきりと意味を持って整列する瞬間というのは何度見ても壮観な眺めである。はまらなかったピースに合うような別のピースが見つかるとか、繋がらないと思われていた2つを過不足なく繋ぐ鎖が組み上がるとか、なんというか「あるべき場所にあるべき物が戻っていく」感覚にとても興奮するし、感動を覚えるのだ。

 

 

どんなものにも背景に普遍的な事情があって、それが形になって現れたものを我々は普段見ている、と思うことがある。多分ずっと自然科学に興味を持ってその世界を見てきたからかもしれないけど。割と世界は「なるようになる」「どうしようもないことがある」みたいな法則を持っていて、どう足掻いても出来ないことは全然ありそうだ。努力次第で何でも叶う、というのとは一見矛盾しそうだけど、「何でも」というのは想像しうる範囲の事象だけであって、どうしても無理なものはそもそも想像すら出来てないんじゃないかな。

 

 

閑話休題

 

 

 

 

数学もきっとそうで、個々人では彼ら(自分も含めて)が想像しうる範囲の現象しか証明できないし、こうなって欲しい、と考える摂理だけが正しいとみんな考えてるように思う(というか、上述のように想像しえないものについて語る言葉というものは持っていないから)。ただし、数学には絶対的な論理の制限があって、そのルールに則ることで他者との議論が成り立つという側面は大いにあると考える。これが数学が「科学の言語」と呼ばれる所以であろう。

 

 

もちろん、この「絶対的な論理の制限」について議論する数学があるのもなんとなくだけど知ってはいる。でもそれも何かしらの制限の上にしか成り立たないはずで、それはやっぱり世界にとってのある種の正しさが保証されたものなんじゃないかなぁという気がする。

冒頭で「わかることが楽しい」と書いたけど、数学を形作る「正しさ」というものに惹かれて数学にハマっているんだと自分では思います。曖昧なものは掴めないし、掴んだ実感もきっとないけど、数学という枠組みにおいてその曖昧さは許されない。それこそが僕の考える数学の魅力。